水子ちゃんの1回忌・一年目になるのですが、どうすれば良いのでしょうか?
というご相談がありました。
亡くなって、一年目を1周忌といいます。
この辺りを、混乱される方も多いのですが、亡くなって、1年目を「1周忌(いっしゅうき)」と呼びます。
次に、翌年を3回忌(さんかいき)と言います。
ここで、どうして?一回忌じゃないの?
どうして3周忌でないの?という質問も多くあります
それでは、回忌法要というものは何か?についてお話しさせていただきます
一周忌は、一年目に迎えるご命日
大切な人が亡くなるという現実
人は、生まれた限り、死がまっています。
生まれるというのは、日本の法律では、この世に誕生してからの事を言いますが、仏教では、精子と卵子が結合し、命が芽生えた時に「命」と考えます。
昔の方は、数え年という考え方をしていました。
現在では、満年齢を使用することが決まっていますが、70年前では、数え年が多く使われていました。
1950年(昭和25年)のこの日に「年齢のとなえ方に関する法律」が施行されました。その内容は、 「国民は、年齢を数え年によって言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律の規定により算定した年数によってこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない」 と決められました。
数え年とは、お腹の中にいる間の(10月10日間)も「命」と考えます。
ですから、この世に生まれた時点で約1年の年が過ぎているのですね。
お腹の中にいる赤ちゃんは、お腹を蹴ったり動いたり、生きていますね。
そして、生まれた日ではなく、翌年のお正月にみんな一緒に1歳の年を取ります。
一説によると、お正月に年神様がやってきて年を取ると考えられてきました。
悲しいかな、この世に出生することが出来なかった命を供養するのが「水子供養」です
水子供養とは?
この世に生まれた限りは、死が待っています。しかし、それは、亡くなっていく人の苦しみだけでなく、遺された遺族も苦しみを伴います。
「四苦八苦(しくはっく)」といわれるように、苦しみの連続であると説かれます。
生苦=生まれる苦しみ=生まれたことによる次なる苦しみの始まりであること
老苦=老いる苦しみ
病苦=病気になる苦しみ
死苦=死ぬ苦しみ
愛別離苦=愛する人と別れる苦しみ
怨憎会苦=会いたくない人と会わなければならない苦しみ
求不得苦=欲しいものが手に入らない苦しみ
五蘊盛苦=心と身体の苦しみ
わかっていても、耐え難い苦しみを受け止めなければなりません。
わが子を失った悲しみは、「祈る」しかありません。
私たちの存在は、どのような存在なのか?
この世に意味なくして生まれて、ただ死んでいくのか?
それを解決していくのが宗教であり、仏教であります。
仏の世界から、この世にやってきて、この世で修行している。
あの世の世界はあるのか?ないのか?
何もない、仏などいない、と考えるのであれば、それもいいかもしれません。
しかし、わが子が亡くなって、どうか、苦しみのない御仏の世界に生まれ変わってほしい
どうか、御仏の慈悲でわが子を導いてほしいと願うのが、親心であります。
水子供養というのは、お腹に宿った命を、仏様に託して祈る行為であります。
ご先祖の供養と水子供養を別に考える方がありますが、決してそうではなく、ひとつの同じ命として考えます
この世に出生したか?そうでないか?ではなく、この世に托生し、芽生えた命の供養です
法要では何をしているのか?
お坊さんが、一生懸命お経を唱えている。何やらわからない呪文のような難しい言葉を唱えている
何のためのお経なのか?何の意味があるのか?
わからない方が多くおられます。
四十九日迄の法要が大切
まず、仏教は、四十九日迄が大切であると説きます。
人が亡くなり、死出の旅路にでます。これは、中国で作られた十王経というものから始まっていますが、あの世に行くためには、7日ごとの裁判があるとされています。
人が亡くなってからの49日間を「中陰(ちゅういん)」、49日目を「満中陰(まんちゅういん)」と呼びます。
中陰の間は、死者の魂が成仏せずにさまよっていると考えられており、故人のために追善供養を行います。
忌日法要は、故人の命日から7日ごとに行われる法要で、以下の8つが含まれます。
初七日(7日目)
二七日(14日目)
三七日(21日目)
四七日(28日目)
五七日(35日目)
六七日(42日目)
七七日(49日目)・満中陰
百カ日(100日目)・卒哭忌
初七日(しょなのか・しょなぬか)
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初七日は、故人の命日から6日目に行われる法要です。(亡くなった日を一日と数えます)
この日は故人が三途の川に到着する時期だとされており、穏やかな流れになっている川を渡れるように、僧侶や親族、故人にゆかりのある人たちで故人の冥福を祈りましょう。
故人は、まだこの世の未練が断ち切れないままであることから、初七日には力強い「不動明王」が担当されます
二七日(ふたなのか)
ニ七日は、故人の命日から13日目に行われる法要です。
ニ七日では、故人が生前に行った盗みの罪について審判されると言われています。
この時には、お釈迦様のお弟子様となり、仏門に入り修業を始めると言われます。
ニ七日法要で少しでも故人の罪を軽減できるように祈ることで、法要の功徳が故人へ届くとされています。
それによって、故人の魂がより良い浄土へ旅立てるようになることが期待できるのです。
三七日(みなのか)
三七日は、故人の命日から20日目に行われる法要です。
仏門に入った故人は、仏教の勉強をしていきます。まずは、智恵の仏様といわれる「文殊菩薩」の慈悲により導かれるとされています
四七日(よなぬか・ししちにち)
四七日は、故人の命日から27日目に行われる法要です。
今度は、慈悲の心を学ぶために「普賢菩薩」が引導されると言われています。
五七日(いつなのか)
五七日は、故人の命日から34日目に行われる法要です。
57日は、地獄の裁判があるとされます。この地獄の裁判官が、閻魔大王です。閻魔大王は、過去の記録を流しながら、どの世界に生まれ変わらせるか?検討します。北海道洞爺湖や大分地獄めぐりでも知られるように、怖い閻魔様が判決を言い渡されています。
この時、「地獄に仏」といわれるのが、地蔵菩薩様です。お地蔵さまは、地獄に自らが駆けつけて救ってくださる慈悲の仏様であり、閻魔大王の化身でもあるとされています。
関西方面などの地方によっては、49日法要を三月にまたがる事を嫌う風習があります。
これは、身につくという語源からでありますが、三か月にわたって行うのではなく、35日目で済ますという意味です。
例えば、3月16日に亡くなった場合 5月3日が49日となります。そうすると、3月4月5月と「3つき」にまたがってしまいます。
その為に、49日をやらず、35日目である57日(いつなのか)の4月19日に執り行い忌明けとするものです
五七日では5番目の王である地蔵菩薩から審判を受ける際に、生前に犯した罪の全てが映し出されるとされており、故人にとっては辛い場面になります。
しかし、それと同時に現世の人たちが供養してくれている姿も映し出されるため、それを見た故人は嬉しい気持ちで成仏することができると言われています。
六七日(むなのか・むなぬか)
六七日は、故人の命日から42日目に行われる法要です。
これまでの裁きと同様に、六七日では6番目の王である弥勒菩薩(みろくぼさつ)から過去の罪に関して裁きを受けるとされています。
弥勒菩薩は、未来の仏様です。裁きを受けながらも、弥勒菩薩様が、生まれ変わった世界で正しく修行を積むように伝えてくれると言われています。
七七日(しちしちにち・なななぬか)
七七日は、故人の命日から49日目に行われる法要です。
これは四十九日とも呼ばれており、法要の中では最も知られている行事になっています。
49日は、薬師如来が担当されます。この法要をもって、ご先祖のいる浄土に生まれ変わるときとされ、忌明けといわれています。
四十九日では、これまで受けた裁きの結果をもとに、来世でどのような世界に行くかが決まる、とても重要な日になります。
ここでは、僧侶や親族だけでなく、故人と生前関わりがあった人たちも集まって、一緒に冥福を祈ります。
ご霊前から、ご仏前に代わるときであり、霊から仏にかわるときであります。
ですから、初めて迎えるお盆は、この49日法要を終えた後から迎えるお盆の事であり、49日を終えずにお盆が来た場合は、翌年が新盆となります。
この時に、白木位牌から黒い本位牌に魂がえを行われ、お墓のある方は納骨されます。
このように、仏教は、49日迄がとても大切な法要であるとされてきました。
49日にが終わると、先祖霊となるので、安心できるものです。
しかし、その後、1年過ぎた時に、1年目はどうすれば良いのか?
法要というのは、仏事ごとであり、1周忌をしなければならないというわけではありません。
しかし、仏事ごとは、仏法を礼賛し、仏の慈悲にすがり、追善供養といわれるように、
お経を唱えることで得られる功徳を振り向けることができるとされています。
自分が亡くなった側で考えてみたらわかると思いますが、
自分のために、遺族が祈っていてくれる。仏教をきき、経を唱え、供養してくれている
なんて有難い事であろうか。
御仏の弟子となった私も、仏様の世界から、みんなの幸せを祈っていますよ。
となるはずです。
お経は、心の栄養。 お経は、着物。
温かいお経に包まれながら、故人は歓喜し、祈り祈られている。
1周忌にやるべきこと
さて、本題に話を戻してまいりますが、
一周忌には、1年間の「報告と感謝の祈り」が必要であります。
1周忌法要には、さまざまな方法がございます。
■花やお線香・お手紙を供える
お寺は、毎日9時から18時まで開門しております。いつお参りいただいても構いません。
今まで水子供養をしていない方・・・どうぞ、お参りください
他のお寺で水子供養をしたけど・・・どうぞ、お参りください
御仏の前で、お供えし、ゆっくりとお祈りください
遠方の方は、ホームページ供養を行っております。ネット霊園コム ( ネット霊園ネット過去のバージョンから新しくなったのがネット霊園コムの方です)
■お写経やつちぼとけを奉納する。
昔から、供養の為にお写経がなされていました。また、写仏や造仏といわれる「つちぼとけ」をお造りになることも良いでしょう
お写経は、書いたものを自宅に置いておくのではなく、御仏に奉納するものです。奉納していただくのが御朱印です。
■正式な水子供養をちゃんとやっておく。
水子ちゃんと書かれているところをみると、きっと戒名を授かっていないのでしょう。
出来れば、戒名をさずかることを強くお勧めしております。
永代供養を申し込まれた方は、当院がかわって毎朝ご供養しております。
戒名とは名前ではなく、仏弟子となり導いてくださる事を意味します。
そして何よりも、わが子の名前を呼んで供養が出来ます。
■お位牌をつくる
もし可能であれば、位牌もお造りになってあげてください。
お位牌を抱きしめてあげることも出来ます。
1年間、様々な事がございました。しかし、もう一度その時を振り返り
わが子に問いかけてあげましょう。
わが子は、仏様の元から、いつも見守っていてくださる事を感じてください。
1周忌の法要をお寺で行う方法
丁寧にされる場合
日時をホームページからご予約ください。
当日、水子さんのお供え物(お菓子やお花など)やお手紙を書いてお供えなさってあげてください。
僧侶と共に、1周忌法要を厳修します。
法要のお布施は、1霊1万円程を目安に「お布施」と書いてご用意ください。
もし、予約が取れない時や、ご多忙の場合は、合同法要もございます
10:30/12:30/14:30/16:30 の4回の合同法要にご参列ください。
お布施は、個別法要も合同法要も同じです
そのお時間も取れない時は、9時から18時の間にお参りくださり、お線香をお供えなさってあげてください
この場合、お参りのみとなりますので、読経料は不要です。
お供え物を供え、明かり(ろうそく)を点じ、線香を焚き、わが子へのご供養の心は、必ずや届いているものと強く信じます。
100か日法要
なを、1周忌法要の前には、百カ日(ひゃっかにち)がございます
百カ日は、故人の命日から99日目に行われる法要です。
この法要は別名「卒哭忌(そっこくき)」とも呼ばれており、遺族が故人を亡くした悲しみから解放される日だとされています。
また、1周忌だけでなく、3回忌7回忌~33回忌迄、忌日がございますので、ご参考までに残しておきます
年忌法要とは、定められた年の命日に行う追善供養のことです。
亡くなって1年目を「一周忌」、2年目を「三回忌」、その後、七回忌(6年目)、十三回忌(12年目)、十七回忌(16年目)と、3と7の年度に行います。三十三回忌を「年忌明け」といって弔い上げになるのが一般的です。
なぜ?2年目が3回忌になるのかというと、亡くなった年を1年と数えます。これは、小学校が1年生から始まるのと同じです
0年生というのはありませんね。
100か日法要・1周忌法要というものは、神道の流れが混ざってきたとも考えられています。
年忌法要には、以下の13種類があります。
1年目を1周忌
2年目を3回忌
6年目を7回忌
12年目を13回忌
16年目を17回忌
22年目を23回忌
26年目を27回忌
32年目を33回忌といいます。
1周忌はやった方が良いか?
最後に一周忌は、やった方が良いでしょうか?という声は多く寄せられます。
よく、「赤ちゃんの事は忘れて前に向かって行きなさい」とアドバイスをされる方があります。
果たして、忘れられるでしょうか?
また、忘れることが供養でしょうか?
赤ちゃんの気持ちになって考えてみて下さい。
親の意思判断によってこの世に生まれる事が出来ず、抱きしめてくれることもなく、闇から闇へ無かったかのように忘れ去られていく。
仏様に託すことが水子供養
私は、忘れる事ではなく、仏様に託すことであると考えます。
わが子を、この世に生まれた子供と同じように愛し、供養の心を振り向ける。
親では救うことが出来ない闇の世界にいったわが子を、御仏の慈悲でお導きいただくのです。
仏様に託し、成仏を心から祈る。その気持ちは、必ずやわが子にも通じ、わが子は歓喜し安心するのではないでしょうか?
この世に生まれた子供と同じように、産むことのできなかったわが子の命を供養する。
わが子を御仏に託すことで、仏様の元からわが子も私たちを見守っていてくださいます。
1年過ぎても、10年過ぎても変わらず、私たちを陰ながら見守り支えていてくれる存在であると思います。
ありがとうございました。