「地蔵和讃(じぞうわさん)」の「おこころ」
平安時代、最初にお念仏をひろめたされる「空也上人(くうやしょうにん)」が書いたのではないかと言われている正式には「賽の河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)」という”あの世”での物語です。
もちろん架空の物語なのですが、お子様を亡くされた方にとっては、少し「怖い」「残酷」な描写が出てきます。
ここで大切な事は、今回の「地蔵和讃」や「教典(お経)」もそうですが、
文字を文字通り読み、受け取るのではなく、その「教典」を書いた人の「おこころ」をよむことです。
「空也上人」が「言いたかったこと」「伝えたかったこと」とは何でしょうか?
「地蔵和讃」のひとつの「お味わい(解釈)」としてご覧いただければと思います。
「地蔵和讃(じぞうわさん)」とは?
親よりも先に亡くなり、「親を悲しませる」という罪を背負った子供達は、三途の川を渡ることが出来ず、「一つ積んでは父のため」「一つ積んでは母のため」と残された父母や兄弟達のしあわせを願い石を積み供養をします。
しかし、そこに鬼が現れ、せっかく積んだ石をくずしてしまいます。また次の日同様に石を積み、残された父母兄弟のしあわせを願い石を積みますが、やはり鬼にくずされてしまいます。
そんな日が来る日も来る日も続いていきます。
そんなところへお地蔵様が現れてその子供達を鬼から護り、あの世に導いてくださるという物語です。
なぜ子供達は石を積んでいるのか?
仏舎利(お釈迦様のお骨)を納めた塚を「仏塔(ストゥーパ)」と言います。昔から仏像や仏塔をつくることは、大きな功徳がある、と考えられてきました。
また大乗仏教では「回向(えこう)」という言葉があります。簡単に言うと、「自らが積んだ功徳を他者に振り向ける」ことです。
つまり子供達は、本物の仏塔は作れないにせよ、仏塔に見立てて、小さな手で河原の石を積むことで得る功徳を、親に振り向け、親のしあわせを願っているのです。
なぜ子供達は鬼に責められるのか?
親として子供が亡くなる事は耐えがたい悲しみ・苦しみです。
この物語の中では、まさにその「親が悲しんでいる」「親が嘆き苦しんでいる」ことが、子供達が鬼に責められる理由と書かれています。
では、子供達が鬼から責められなくなるにはどうすればいいのでしょうか?
それは、「親が涙をぬぐうこと」「親が子を亡くした悲しみから立ち直ること」に他なりません。
子供達が石を積みながら願っているのは、まさにこのことなのです。
最後に
地蔵和讃の中で子供達が、親達のしあわせを願い石を積み、功徳を親達に振り向けているように、
亡き子供の成仏(しあわせ)を願い、戒名を授かり功徳を亡き子供に振り向けること、がまさに「回向」「ご供養」なのです。
子供を亡くした親にとって、悲しみや後悔は簡単には癒えることはないのでしょう。
でも亡き子供達は、お地蔵様が護(まも)ってくれています。
だから親は安心して、涙をぬぐって笑顔でしあわせに過ごしてほしい。
「空也上人」が伝えたかったことは、このことなのではないでしょうか。
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